まとめページ

2016年10月26日水曜日

闘病の終わり

ショッキングな表現も出てきます。見たくない方は閉じてくださいm(_ _)m

======
私たち夫婦に「弟を亡くす」という共通項が出来てしまった。7月末に骨髄移植を受け経過は順調だったのに、リハビリ中転倒してから事態が変わった。血腫を作ってしまい、失語や記憶障害が出た。そこからまたリハビリ頑張って徐々に言葉が増え、ナースに年齢を聞くぐらいの冗談も言えるようになったし、車いすでお散歩にも出られた。CT画像を見る限り血腫は消えた。なのに10月から急激に弱り、医師の説明が、予断を許さない→危ない→危篤へと変化していった。

危篤状態を見た最初の印象は「きれい」だった。義理の妹が「びっくりしたでしょ。」と言ったが、もっとチアノーゼが出て肉も落ちていると思っていた。浮腫みは別にしても脚がしっかりして踝の血管も見えている。そうは言っても、皮膚は黄色くて、黒いかさぶたと剥けかけの皮が斑に残り、まつ毛のない半開きの目には膜が出て、酸素マスクの下は口を大きく開きっぱなしなので、人によったらショックかもしれない。

私自身は、呼吸の度に胸郭が動くのを見ると、希望を捨てる気になれずにいた。ナースが「耳は聞こえているので話してくださいね。」と言うので、小声でなく普通のトーンで思い出話や暴露話などしたのだが、時々うるさすぎて起きるんじゃないかと錯覚するほどだった。これまで何度も何度も医師の説明を段階的に受けてきた奥さんや夫は、絶望しきって「もうダメだ。」と顔に出ている。こんな中にいると一緒になってさめざめ泣く自分は必要ないと思うし、まずこの重苦しい空気を入れ替えたくなってしまう。(私は人には文句言うくせにデリカシーがないんだな。)
食堂にて、夫ラーメンを諦め蕎麦、私は抹茶ラテを。(甘すぎて失敗。)この後一旦夫だけ会社へ戻るので、私が見守りに加わる。意志疎通が出来た頃は皮膚に触れると痛がったそうなので、皮の厚そうな所をタオルの上からそっと触る。しかし、どこもかしこもちゃんと温かい。(熱は36.9度)体勢を変えるためナース含め数人がかりで身体を動かすと、ご機嫌斜めになり、かなり明確な唸り声を発した。

静かな中でモニターや点滴の落ちる様を見つめていると、かすかに声(音?)が出たり、手足がピクッと動く。その度に意識が戻ることを期待したり、いや待てこれは痙攣かと考える。時々「ゴエッ」とか「ゴロゴロ」と音がするのが苦しそうで気になったが、ナースに聞くと、血小板が足りず、粘膜の出血が怖くて痰の吸引も頻繁に出来ないと説明してくれた。(これが死の5時間前なので痰ではなく唾液などが溜まって起こる死前喘鳴だったかも。)

血圧は81/45近辺で安定。点滴は昇圧剤、ブドウ糖、痛み止め、黄色いのが血小板。あと酸素10リットルを濃度見ながら調節。(こういうの見ていると自分の経験も少なからず蘇る。)
仕事仲間が涙をこらえつつ耳元で「また来るよ!」「絶対良くなって遊び行こうよ。」と声を掛けて帰った。私は保育園の迎えがあるので17時で退室。夜は奥さんと妹と、再び会社から戻った夫が付き添い。その後21時すぎに亡くなった。夫が帰宅したのは朝の4時だった。

義弟はもうどこも痛くも苦しくもない。それだけが救い。色々考えると急に涙が浮かぶので出来れば外に出たくない。

お読みくださり
有難うございました(。◕∀◕。)ノ

↓子宮がん登録ブログはこちらから
にほんブログ村 病気ブログ 子宮がんへ

0 件のコメント:

コメントを投稿

Enter your comment (。◕∀◕。)ノ